INICIAR SESIÓN正臣の親指が、莉乃の口の端をなぞった。 「笑うと、ここがこんなに上がったかな」 莉乃は、何も答えられなかった。 その口元を、この人は見比べている。今、ここにいない灯里と。 「……変ですか」 正臣の指が離れた。 怒られるよりも嫌だった。もう触れたくなくなったのだろうか。 「変じゃないよ。少し違って見えただけだ」 名前を呼んでほしいとは言わずにいた。灯里として扱われることも、自分で選んだ。 でも、楽しくて笑った時くらい、自分のままでいたかった。 どうして、そんなところまで見つけるの。 自分が笑ったことを喜んでくれたと思っていた分、悔しかった。 正臣は優しい顔のままだった。 莉乃は口を開きかけた。昨日の質問に答えたのも、今夜ここにいたのも、私でしょう。そう言ったら、この人はどんな顔をするのだろう。 言えなかった。 あんなふうに甘えたからだ。灯里の笑い方を忘れて、自分のままで笑ってしまったから。 「気のせいかな。おいで、灯里」 差し出された腕の中へ、莉乃は戻った。 さっきはあれほど嬉しかったのに、今は顔を見られたくなかった。 「疲れたんだね。もう寝よう」 正臣が髪を撫でる。 莉乃は、そっと顔を上げた。 「もし、私が灯里じゃなかったら、どうしますか」 正臣の手が止まった。 見とれるほど整った顔に、優しい笑みが浮かんでいた。 その目が、ゆっくりと見開かれる。莉乃が笑ってみせても、正臣はまばたきもせず、その顔を見つめていた。 「……正臣さま?」 「大丈夫だよ」 正臣の指が、もう一度、莉乃の頬に触れた。 「僕が、ちゃんと灯里に戻してあげる」 さっき褒めてくれた時と、同じ声だった。 莉乃は頬に触れる手を両手で包んだ。怖がったことまで、気づかれたくなかった。 「……はい」 自分のままでも愛してくれるか、聞きたかっただけなのに。 もう、聞き直せなかった。 その手に頬を寄せたまま、莉乃は口元が見えないように顔を伏せた。 正臣の胸に額を押しつけると、彼は何も聞かずに、また髪を撫で始めた。 こんなに近くにいるのに、好きだと言ってほしいとさえ言えない。 優しい声が欲しかった。けれど、顔を上げれば、また違うところを見つけられるかもしれない。 莉乃は、眠くなった
「どうしたの」 私の名前も呼んでほしい。 そう言いかけて、莉乃は唇を閉じた。 今の正臣は優しい。けれど、莉乃だと言ったあとも同じ顔で笑ってくれるかは分からない。 今夜、その答えを確かめる勇気はなかった。 「……何でもありません」 「君が欲しいと言ってくれなければ、入れない」 莉乃は正臣の肩に手を置いた。指先が震えているのが、自分でもわかった。 「入れて、ください。正臣さまの、全部……欲しいです」 正臣は笑みを深くし、ゆっくりと腰を沈めた。熱が奥まで広がっていく感覚に、莉乃の喉から甘い声が漏れた。正臣は深く入ったまま動かず、莉乃の額に唇を落とす。 「よく言えた。今夜は、君が望むだけ、僕が全部あげる」 動き始めた腰は、激しくはなかった。莉乃の内側を確かめるように、ゆっくりと深く、何度も同じ場所を擦る。莉乃は正臣の背中に腕を回し、自分から腰を合わせた。 「……もっと、褒めてください」 「本当に、いい子だ。こんなに僕を包んで、熱くなって」 正臣は莉乃の耳たぶを甘噛みしながら、腰の動きを少しだけ深くした。莉乃の声が、抑えきれずに高くなる。正臣はその声を聞きながら、片手で莉乃の髪を梳き、もう片方の手で彼女の腰を優しく支えた。 「灯里。僕の灯里。今夜は、君だけを見ている」 莉乃は正臣の首に顔を埋めた。名前を呼ばれても、今は自分の体が、自分の声が、この人を喜ばせているのがわかった。正臣の動きが次第に速くなり、莉乃の奥を正確に叩くたびに、頭の中が白く霞んでいく。 「……っ、正臣さま、私……」 「いいよ。そのまま、いって」 正臣は莉乃の腰を両手で抱え、深く突き上げた。 「ああっ……」 莉乃の体が弓なりに反り、声が途切れた。正臣はそのまま動きを止めず、莉乃が痙攣する内側を優しく擦り続けた。 「……よく、頑張ったね」 息を整えた莉乃の額に、正臣がもう一度キスをする。莉乃はまだ震える腕で、正臣の背中を離さなかった。 「明日の朝も、ここにいてくれますか」 「当たり前だ。君が望むなら、朝も昼も、ここにいる」 正臣は莉乃を抱き直したまま、シーツを二人の上にかけた。莉乃の髪を指で梳きながら、まだ少し荒い呼吸を静かに聞いていた。 莉乃は目を閉じたまま、正臣の胸に頬を寄せた。あの女が戻りたいと言っても、この熱と、この声と
「今夜は、私だけを見ていてください、正臣さま」 正臣が不思議そうな顔をした。 「ほかに誰がいるの」 そう言って笑う顔が、嬉しかった。 莉乃は正臣の肩へ頬を寄せた。あの女が戻りたいと言っても、この場所だけは渡したくない。 正臣がベッド脇の灯りを消した。 正臣の唇が離れたあと、莉乃はまだその熱を追うように、わずかに身を寄せていた。 今夜は、私だけを見ていて。 さっき自分から言った言葉を、莉乃は心の中でもう一度繰り返した。 正臣は笑いながら、莉乃の腰を抱えてベッドの中央へ引き寄せる。シャツの裾がめくれ、素肌が触れた。まだ少し残る整形の腫れを、正臣は指先でそっと避けた。 「痛いところは、触らない」 低い声でそう言われて、莉乃の胸の奥が熱くなった。正臣は莉乃の寝間着の肩をゆっくりと滑らせ、鎖骨に唇を落とす。キスというより、確認するように長く触れ続けた。 「よく頑張ったな、灯里」 耳元でそう呼ばれても、莉乃は否定しなかった。今は、この名前で褒められることが、自分への言葉に聞こえた。 こんなふうに愛されるなら、灯里になってもいい。 呼ばれる名前が違っても、正臣の隣にいられるのは自分なのだ。今夜は、それで十分だと思えた。 正臣の手が胸の下から脇を撫で上げ、指の腹で乳首を軽く押さえる。強くはない。ただ、熱を与えるように円を描いた。 「……んっ」 莉乃は小さく声を漏らした。正臣はその声を聞くように、もう一度同じところを指で擦る。 「ここ、敏感になってる。昨日の夜から、ずっと我慢してたのか」 「……はい」 正臣は答えを待たずに、莉乃の膝を押し開いた。寝間着の裾が捲れ、太ももの内側に指が這う。莉乃は反射的に脚を閉じようとしたが、正臣の手がそれを許さなかった。 「隠さなくていい。今夜は、君が欲しいところだけを、全部教えてくれ」 その言葉に、莉乃の腰が小さく跳ねた。正臣の指が下着の縁をずらすと、すでに濡れた感触が指先に触れた。正臣はそれを確認するように、ゆっくりと二本の指を沈めていく。 「……っ、正臣さま」 「いい子だ。こんなに、僕を待ってくれてた」 指が奥まで入り、ゆっくりと動かされた。莉乃はシーツを掴み、息を荒くする。正臣は焦らさず、けれど急がせもしない。親指で敏感なところを軽く押さえたまま、指を内側で
燎は私を見つめたまま、笑みを深めた。 昨日、控室でキスをした時と同じくらい、目が熱い。 燎が身をかがめ、私の耳元へ唇を寄せた。 「ますます、手放したくなくなるな」 私にしか聞こえない、低い声だった。 熱い吐息が耳たぶをかすめ、首筋までぞくりとした。 今、そんな声で言わないで。 昨日のキスの続きを、欲しくなってしまう。 燎の顔を見るのが悔しくて、私は神崎教授へ目を戻した。 神崎が燎へ向き直った。 「鷺宮さん。では、外で待っていただけますか」 燎は引いていた椅子を戻した。私と神崎教授、エリックを順に見る。 「終わったら、呼べ」 扉が閉まってから、私は端末をテーブルへ置いた。 神崎教授には、医療の現場で何が必要かを聞いた。エリックとは、今の技術でどこまで作れるかを話した。二人の助言を受けて、考えていた構想が、新しい製品の設計としてまとまっていった。 新しい特許も狙えると、エリックは言った。 早く作りたい。奪われたものを取り返すだけでなく、今度は、自分の新しい製品で勝ちたい。 昼前には、二人とも一緒に開発すると言ってくれた。 私が考えたものを、この二人も作りたいと思ってくれた。それが嬉しかった。 扉を開けると、燎が廊下で電話を切った。 早く話したくて、私は彼の前まで歩いた。 「新しい特許も狙えるって!」 燎は私の顔を見て、笑った。 「もう、そこまで話したのか」 「うん。新しい製品の設計ができたの。二人とも、一緒に作ってくれるって」 言いながら、また嬉しくなった。 今度は、最初から私の名前で作るのだ。 「まだ、ちゃんと作れるかは分からないけど」 「だから、あの二人が加わるんだろう」 燎は私の肩に手を置き、顔をのぞき込んだ。 「俺の紹介だけで、あの二人は動かない」 私も、この人にもっと話したかった。今日、二人と考えたことを、まだ半分も伝えられていない。 何より、嬉しい時に、まず燎の顔を見たくなった。彼が笑うと、また話したくなる。 「お昼、一緒に食べない?」 燎の手が、肩から背中へ回った。 「その誘いなら、断らない」 *** その日の夜、久条の屋敷で、莉乃は正臣の寝室にいた。 階下では、志津子が柊吾と会社の話をしている。夕食に招いたのだと、使用人から
「……そんなこと、言ってない」 説明会後の控室で、燎を見上げた。 何を言っているの。こんなところで。 そう続けるつもりだったのに、燎に腰を引き寄せられると、言えなくなった。 近づいた唇に、吐息が触れる。 「なら、離せ」 燎が、私のつかんでいる手首へ目を落とした。 離したら、この近さも終わってしまう。 それが嫌で、私は指に力を込めた。 「……いやよ」 燎の目が私の唇へ下がった。 今、自分が何を言ったのか分かって、顔が熱くなる。それでも、手は離せなかった。 唇が触れた。 思っていたより柔らかくて、すぐに離れたのが物足りなかった。 もう一度、触れたい。 首に手を回して、今度はもっと深く口づけたい。燎にも、私と同じくらい夢中になってほしかった。 手首から指を離し、その肩へ手を伸ばしたとき、扉の向こうで足音が止まった。 「続きは明日よ」 「明日もあるのか」 「仕事の話」 燎が笑う。 私も、今度は一緒に笑ってしまった。 *** 翌朝、奏汰の朝食と薬を見届けてから、私はSENOVAの開発室へ向かった。 約束の時間より少し早く着いたのに、神崎修一教授は、もう長いテーブルの向こうに座っていた。 小児消化器の共同研究を率いる医師だ。白髪の混じる短い髪と、動画で見ていた丸い眼鏡を見て、思わず足が止まった。 その隣に、エリック・ウォルシュがいる。海外の複数病院をつなぐ情報基盤を作った技術者で、背が高く、腕まくりしたシャツに細い時計をつけていた。 父と講演を見ながら、いつか直接話を聞いてみたいと言っていた二人だ。 半年先まで予定が埋まっている人たちが、本当に目の前にいる。まだ試作品もできていない、私の研究のために。 燎は、本当にこの二人を呼んでしまった。 なんて人なの。 手にしていた端末を持ち直した。 父にも見せたかった。でも、今日は私が話すのだ。 「桐谷灯里です。お時間をいただき、ありがとうございます」 神崎が立ち上がり、握手をした。 「お父様とは、一度お会いしました。あなたが続きを作っているそうですね」 父の名前を知っているのか。 嬉しかった反面、急に緊張した。期待されるのはありがたい。でも、父の娘だからで終わりたくなかった。 「最初は息子のためでした。今
燎は笑みを浮かべたまま、すぐには答えなかった。説明会後の控室で、私たちは向かい合っている。 目をそらしたら、冗談にされそうで、私は見つめ返した。 早く答えてほしい。このままでは、何でもいいから欲しいと、余計なことまで言ってしまいそうだった。 燎が、少し顔を寄せた。 「俺の一日をやる。誰にも邪魔させない」 それから、テーブルに置いたままの腕時計へ手を伸ばした。 「それ、明日もくれるの?」 「明日は仕事だ。勝った後は、君の好きにしていい」 時計をつけながら、燎が私を見た。 「仕事でも、それ以外でも」 わざと、最後をゆっくり言った。 その視線が、私の口元へ下りた。仕事以外に何を欲しがるかまで、分かっているのだろうか。 「難しい交渉を全部頼んでも?」 「構わない。だけど、本当にそれが欲しいのか?」 燎は時計の金具に指をかけたまま、私を見た。 口元には悪戯っぽい笑みがあった。そのくせ、私を見つめる目は熱い。 まるで、欲望を丸裸にされているみたいだった。 交渉なんて口実だと、分かっているの? 仕事がなくても二人で会いたい。私だけを見てほしい。 でも、それをどう言えばいいのだろう。 「……何が言いたいの」 私は燎を睨んだ。 燎は小さく笑い、少し軽い調子で続けた。 「それとも、仮説でも聞いてほしいのか」 え? 懐かしい言い方に、私は動きを止めた。 まだ話したいと口にする前に、続きを促してくれる。そんな人が、昔もいた。 顔も本名も知らないまま、夜中まで研究の話をした人。 「あと五分。ひとつだけ、仮説を聞いて」 九年前、私はよくそう言って、その人を引き止めた。反論されれば腹が立つのに、返事が来るのは嬉しかった。 研究の話なら翌日でもよかった。それでも、会話を終わらせたくなかったのだ。 顔も本名も知らない。会ったことさえなかった。でも、あの人から返事が来るのを、毎晩待っていた。 私は確かに、あの人に好意を持っていた。 私は燎の顔を見た。 もし、あの人が、この男だったら。 「……あなたなの?」 燎の指が止まった。 「何のことだ」 私はその顔を見つめた。 あの人も、私が話し足りないことをすぐ見抜いた。まだ何も言っていないのに、続きを聞くつもりで返事をくれた







